それは指導なのか、対処なのか
障害児と関わる中で、自傷や他害、パニックなどに立ち会うことがある(もちろん、てんかんなどの発作は含まず)。
自閉的傾向にある子どもの場合、特定のシチュエーションや相手に対してそういった不適応行動を起こすことも多い。
その時、その時点での危険やケガ(自他ともに)を防ぐ手立ては必要だ。
また、場合によっては服薬によるコントロールが本人にとっても必要なこともある。
だが、それが全てなのか。
危険回避や危機対応、薬の処方は、どれも「対処」だ。
しかし、自閉的傾向にある子どもであっても、発達段階にある限り「指導」によって改善や成長を促すことは可能で、かつ重要だ。
具体的にどんな指導が必要かは子どもによって違う。
しかし、場当たりだったり、個人の経験則(当事者の手記を根拠にしたものも含まれると考える)に基づいていたり、何よりも対応する人によって異なるものは、仮に指導と称していても「対処」の範囲を脱していない。
高い専門性に裏付けられ、統一性があり、長期的な視野に立った対応をして、初めて「指導」と言える。
自傷や他害、パニックは障害の特性によるものかもしれないが、根拠のある指導によって改善の余地は必ずある。
今日、大先輩の意見から感じたことを、そこはかとなく書き綴ってみた。
差別と区別
鶴指眞澄・海老名市議がTwitterで差別発言「同性愛者は異常動物」
こういった差別思想を当たり前に表明できてしまう人が、議員という公職に就くことは許せない。
当該ツイートは削除されているが、発言の撤回はしないとする姿勢も報道に出ている。
自分とは立ち位置の異なるマイノリティは認めないと言っているも同じことで、そんなことで政治の仕事が務まってはいかんのだ。
しかも、酔った勢いで思ってもいないことを書き込んだという釈明までしていて…
まあ、キリがないので本題へ。
NewsPicksでも様々な批判のPickがされていたが、その中で気になる記述があった。
「差別はいけないが、区別は仕方ない」
同性愛者に限らず、マイノリティに対するこの手の発言は少なからずある。
撤廃に関する国際条約」(人種差別撤廃条約)の第1条1にこう記されていた。
「この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。」
つまり、本人の努力ではどうしようもないことで「区別すること」は完全に差別にあたる。
だから、「差別はいけないが、区別は仕方ない」っていうのは完全な誤解。
じゃあ、なぜこの手の誤解がなくならないのか。
もしかして、「同性愛」が努力すれば克服?できるものだと思われているんじゃないか。
なんというか、一種の性癖のように捉えられているんじゃないか。
そういう誤解がベースにあったままでは、真の理解は広まらず、「特殊な存在」として「区別」されてしまう。
他のマイノリティにも当てはまるかもしれないが、必要なのはそういう人たちも含めて社会なんだよっていう包摂であって、特殊でも異常でもないということ。
同性婚を権利として認めたからといって、みんなが同性婚をするようになって少子化が進むなんてことは起こり得ないし、むしろありのままであたりまえに過ごせる社会になることでみんなが過ごしやすい環境は育児にだっていい影響を与えるはずだ。
蛇足ながら、同性愛は人間以外の生物にも一定の割合で生じるという研究結果が出ているということを書いておく。
いじめっ子は悪人なのか
いじめは被害者の心で決まると書いた。
では、加害者のことはどう捉えるべきか。
いじめの撲滅が度々クローズアップされ、決まって使われるフレーズがある。
「いじめはあってはならない」
「被害者を全力で守る姿勢が大切」
その度感じるのが、加害者に対する教育的視点の欠如だ。
いじめは許してはいけないが、それはあくまで行為としてのいじめであって、加害者の存在や心理まで一方的に断罪するべきではない。
いじめは悪だが、いじめっ子は悪人ではない。
その線引きができなければ、いじめっ子が教育の対象から外れてしまう危険性を孕む。
いじめられっ子に寄り添うのと同じように、いじめっ子の心にも寄り添い、いじめっ子がいじめに及ぶに至る心理を丁寧に紐解くことをしなければ、いじめの根本的な解決は望めない。
また、いじめられっ子を守る姿勢は大切だが、それにばかり目を奪われると、他のいじめに気付く感度が鈍ってしまう。
いじめにおける加害者と被害者は、実は容易に変遷し得るし、時には逆転してしまう場合もある。
表層的な解決を繰り返しても、いじめの根本的解決はない。
学齢期の子どもたちは、誰もが教育の対象であることを忘れてはならない。
相手の心に寄り添う尊さ
“大丈夫”と見過ごさず、どうか気づいてください。「いじめ」は私たちの身近にある
「いじめをなくそう!」というと、いかにいじめが悪いことかの説諭とか、いじめの行為の例示とか、そんな対策ばっかりだが、それらが奏功していないのは言うまでもない。
誰かが他者の言動によって傷つき、苦しんだら、その言動はいじめなのだ。
とはいえ、どんな言動にも、相手や場合によっては直接関わっていない第三者を傷つける可能性というか、危険性が潜んでいる。そのうえ、一度表に出てしまった言動は取り消すことはできない。
他者を傷つける言動を控えることは大切だが、それ以上に「自分の言動が誰かを傷つける可能性がある」という認識と、「傷つく人に罪はない」という受容が大切だと思うのだ。
そういうと、「もし自分がされたらどう思うか」という尺度を持ち出す人もいるが、私はそうは思わない。
この尺度は、「この程度で傷つくなんて」という発想を許すことになる。
大切なのは、その人が傷ついているという事実。それにまっすぐ向き合う心。
難しいけど、相手の心にしっかり寄り添える存在でありたい。せめて、自分は。
理解よりまず先に
http://plus-handicap.com/2015/11/6804/
障害児と非障害児、社会とのつながりを目指すNPO法人Collable(コラブル)代表理事の山田小百合さんのコラムを読んで。
障害児のことというと、理解啓発が課題とされることも多い。
実際、理解が不足していることが引き起こしている差別や偏見は未だなくならない。
しかし、「理解しよう」と声高に叫ぶのも、また違和感を感じる。
そもそもなぜ理解が進まないかといえば、接点がないからだ。
実際、障害児教育や福祉に職として携わる人の中には、仕事に就く前から何かしら障害児と関わりを持つことでその職を目指した人が少なくない。
裏を返せば、障害児・者に直接関わらずに人生を歩む人も多数いるということにもなる。
理解の差は、関わりの差であると言っていい。
ならば、「理解しよう」という前に、「関わろう」という段階が必要なのは、山田さんがコラムで述べている通りだ。
様々な人々が「あたりまえにいる」という至極あたりまえな事実に気付くことから関係が生まれ、関係していく中で理解が進む。
もうひとつ。
関わるという意味では、異障害種間の関わりも希薄だ。
障害者同士が障害種を越えて関わり合えずにいるのは、障害の有無を越えた関わりの「障害」になりかねない。
様々な人同士が等しく関わり合い、手を取り合うところから、共生社会はできていくのではないか。
「障害児」のいない社会へ
障害児の出産「茨城では減らせる方向に」 教育委員が発言
「『障害児』なんていなくなればいいんだよ」と、雑談の中で言った先輩がいた。でも、それは、リンクの71歳のババアが言っていることとは全然違う。むしろ真逆と言っていい。
まず、記事について。
宿った命に優劣などない。障害児の養育が、いわゆる健常児の養育より大変なのは、制度の不備や周囲の理解不足と言った社会環境の未整備のせいなのであって、生まれてくる障害児にも、障害児を産み育てる家庭にも罪もなければ責任もない。
それを「命の大切さと社会のバランスの問題」とすり替えて、家族、とりわけ母親に責任をなすりつけようと言うのだ。
断じて許せない発言である。
一方、先輩が言った「『障害児』なんていなくなればいいんだよ」は、障害種それぞれの療育のあり方に偏るあまり、本当に必要な支援や指導が行き渡らないのは、ただ単に大人の側のワガママやカテゴライズが原因であって、結果障害児本人が将来困ったり苦しんだりすることを考えてないんだ、というような会話の流れで発せられた。
「障害児」という(そして、「○○障害」というさらに細分化された)カテゴライズによって、結果障害児本人が辛い人生を歩むのでは本末顛倒だ。「障害」は障害児・者の内ではなくて、取り巻く社会との関わりにあるという考えこそ、これからの社会形成の主流となるべきである。
障害児・者がどういう障害を抱えているかではなく、社会で生活をする上で具体的に何が困っていて、どんな支援が必要なのかにフォーカスした政策が、教育にも福祉にも取られていくべきなのだ。それを突き詰めれば、「障害児・者」というカテゴライズ自体がナンセンスであり、そのカテゴライズが不要になるはずだ。
「『障害児』のいない社会」で目指すべきは、障害児を産ませないという優生社会ではなく、みんながありのままであたりまえに過ごせる、いわば「共生社会」なのである。