SMILE make SMILES

ダイバーシティとユニバーサルデザインに興味あります。

2020、一年の計

令和最初の年越しを過ぎ、令和2年=2020年を迎えました。


都営浅草線から京急に2100系で直通する臨時特急に乗りたいという思いが邪念になったのか、三崎の城ヶ島での初日の出は厚い雲の向こうでしたが、長男とのいい思い出になりました。

そして、あっという間に三ヶ日が過ぎ去ってしまいました。こうやってあっという間に時間が過ぎていくのはちょっとした恐怖でもあります。

障害児の居場所を地域に作るという思いが湧き上がったのは、平成20年=2008年頃。

当時所属していた肢体不自由特別支援学校寄宿舎の閉鎖が決まり、「舎なき後」を模索する学校の動きから感じた、障害児の居場所のなさがきっかけでした。

初めは寄宿舎をそのまま外に作る「輝宿舎(きしゅくしゃ)」として着想したものの、学校に紐付かない宿泊施設を作る壁の高さに頓挫。

一方で、これからの社会に作るのであれば、特定の障害児に限った居場所ではなく、どの子にも開かれた居場所の方がよりよいのではないか、という思いに至り、現存の最も近いものは児童館、それをさらに拡げるもの、それが誰にとっても過ごしやすい居場所になれば。そう願って「ハイパー児童館ぷれいす」と名付けるまではしました。

輝宿舎から12年、ハイパー児童館ぷれいすに変化してからも10年近く経ったはず。
いろいろ模索してつまずき、企画して頓挫し、呼びかけて流れ、発信して続かず、結果何も進まないままここまで来ました。

妻に打ち明けた際には、「決して先頭に立って(代表など)やらないで」とクギを刺され、「誰かにやってもらって手伝う」か「こどもが手を離れてからやる」かにしてとブレーキを踏まれました。

「誰かにやってもらって手伝う」を模索していろいろ呼びかけた時期もました。「何かできることがあったら言ってください!」と言ってくださる方はいました(それ自体は大変ありがたいことです)。しかし、言い出しっぺが「手伝う」スタンスで「じゃあ私が先頭でやる」と名乗り出てくれる奇特な御仁がそうそう見つかるわけもありません。

「こどもが手を離れてからやる」のには、あと15年以上はかかるでしょう。齢58になります。
そうなるとセカンド・キャリアのイメージになります。それはそれで悪い事ではありませんが、今抱いている思いをセカンド・キャリアまで温め続けるには時間が長過ぎに感じます。ハイパー児童館ぷれいすを作って満足するならセカンド・キャリアでも充分かもしれませんが、それは自分の中で違和感があります。そもそも、セカンド・キャリアって、定年退職を元気に迎えて有り余るパワーをぶつけるものであるはず。58歳まで元気に生きている保証などどこにもありません。自信もありません。

人生一回、後悔して死ぬならやるだけやりたい。

同じ後悔でも

「あれだけやったけどできなかった」

「家族のために我慢したけどやっぱりやりたかった」

では全然違う。

だから、決めました。
今年の半ばを第一期限、来年半ばを第二期限としてより具体的な模索を進めます。
半ばとしたのは、年度末の退職の意向を伝えるための期限が夏頃だから。

カフェとして街に開きながら、ハイパー児童館として全てのこどもに開かれた場所を作る。

そのために必要なお金、場所、資格、知識、その他諸々の準備をどうすれば進められるか。

妄想として先行して開きながら、必死に考えていきます。
http://hyperchildrenshouse-place.hatenablog.com/

それが、2020の、決意。