SMILE make SMILES

ダイバーシティとユニバーサルデザインに興味あります。

作ってみる

ハイパー児童館を作りたい。
「ありのままであたりまえに」を本当に実現するには、乗り越えるべきカベや、取り組むべきコトがたくさんある。
あるんだけど、結局は場を作ってみないことには始まらない。

土壌作りが先か、具体的な場を持つことが先か、そんなことを考えていてもキリがなくって、想いを語ってばっかりじゃあどんどんフワフワしてきちゃうような気がしてしまう。

古民家がうまく手に入ったらとか甘い考えもあったけど、実は自宅の近所に元コンビニの空き店舗があって、そこをなんとかできないかと画策し始めている。
ネットで調べて計算すると、物件をおさえるだけで180万円以上かかる。当座の運営資金やリフォーム費、広報費とか諸々考えると4~500万円用意できないといけない。
「だから無理」とは思わない。しかし、簡単な額ではない。法人格がないから融資は難しいし、クラウドファンディングとしても厳しいチャレンジだと思う。誰かが出してくれればラッキーだけど、まさかね。

可能性を探っていきたい。アイデアや支援募集中。

特別支援学校とインクルーシブ教育

特別支援学校に医療的ケア児が多く在籍していることを、普段特別支援教育に携わらない方がどれだけご存知だろうか。

医療的ケアが必要な子どもの教育は、様々な分野の先人方の尽力で格段に向上したと言える。
従来医師と看護師、保護者しかできないと規定されていた多くのケアが、必要な研修を受ければ教諭も行えることになって、より多くの子どもが学校に通えるようになった。
それでも、まだなお高度な医療的ケアの場合は教諭が担えない。
その一つに、人工呼吸器がある。人工呼吸器の調整が教諭の担える医療的ケアとなっていないため、人工呼吸器を着けた子どもが学校に通う場合には、保護者の付き添いが必要となっている。

そんな中、新入学を控えた人工呼吸器の子どもの保護者から、次のような声が挙がった。
「特別支援学校に通わせても保護者付き添いになるのなら、地域の小学校に入学させたい」
しかも、複数件らしい。

この声を職員会議で教員に伝えた校長は、その保護者に対して特別支援学校に通う優位性を、学校や教員の持つ専門性から話していくというような話をした。

もったいない。
ネガティヴな事情とはいえ、医療的ケアの子どもが地域の小学校に通うことは、インクルージョンの一端になるではないか。

特別支援教育が、特殊教育から綿々と培ってきた専門性を否定するつもりはさらさらない。むしろ、インクルーシブ教育の構築に必ずや寄与するものとなるだろう。
だからこそ、特別支援学校は、障害のある子どもを引き受ける役割だけではなく、地域の学校へのアプローチを積極的に取ることで、障害があっても地域の学校に通える体制作りに寄与する役割も担っていかなければならないと考えている。

障壁があることは承知の上だ。
しかし、障壁は崩し、乗り越えるためにあるのではないか。

戦前から戦後にかけ、障害児教育に尽力した教育心理学者・三木安正氏は、その著書にこう記した。
「社会が進化して、学校もあらゆる個人差をもった児童を同時に教育できるようになれば、或いは特殊学校などは無用になるかもしれない」『私の精神薄弱者教育論』(1976)
この記述から40年、三木の言うように社会は進化しているだろうか?

いじめられっ子だったけど

私は小学校の6年間をいじめられっ子として過ごした。

今、社会問題になっているようないじめられっ子とは違い、友達もいたし、少なくとも孤立はしていなかった。いじめっ子と遊んでいた記憶さえある。客観的には平和ないじめだ。
とは言え、毎日暴力を振るわれて、3年生からは別のいじめっ子から精神的な打撃も与えられ、学校生活が辛くなかったと言えばウソになる。
突発的にいじめっ子(精神的打撃の方)の跳び縄をひったくって自らの首を絞めたことさえあった(あの時止めてくれた友人に感謝)。

そういう意味では、少なくともいじめられた経験のない人よりは、いじめれっ子の気持ちはわかる。

でも、自分をいじめていたいじめっ子のことを今振り返ると、ただただ恨むという気持ちにはなれない。

私に暴力を振るっていたA君には、年子の兄がいた。
A君の兄はわりと評判が良く、成績もスポーツもまずまずよかったように聞いている。
一方、A君はそれほど成績は芳しくなかった。運動は得意だったけど、もしかしたらご両親に兄と比べられるようなことがあったんじゃないかと邪推してしまう。
だとすれば、それは相当なコンプレックスになる。鬱憤もたまる。
そこに、図体は一丁前なのに気が弱く、成績はそこそこいいけど運動音痴という私のような標的がいたら。

ネチネチと言葉や態度でいじめてくるB君は、幼少期に事故に遭い、一命は取り留めたものの、内臓系の障害が残ってしまった。外見ではわからないし、行動が抑制されるような障害ではなかったけど、とあることが本人にも周囲にもその障害を明示してしまっていた。
そして、B君には年子の弟がいた。兄思いの優等生で、同級生の女子にもモテるタイプだった。
B君も、そんな経緯から相当なコンプレックスを抱えていたことは想像に難くない。鬱憤もたまる。
そこに、毎日いじめられている木偶の坊な私がいたら。

どんな事情があっても、特定の個人を一方的にいじめることは許されない。
でも、自分をいじめていた二人のコンプレックスを思うと、いじめっ子=根っからの悪人とは思えないのも事実。
だから、私はいじめっ子の心の闇に寄り添うことこそがいじめの解決の本当の糸口であり、それができる場こそが学校とその周りの地域だと考えている。
いじめられっ子を守ることばかりではいじめを解決できないと心に刻んで、今の仕事も居場所作りも進めていきたい。

余談だが、もうA君にもB君にも、今の思いを伝えることはできない。

事故報告のあるべき姿

今の職場は、事故報告が出ることをことさら避けているように感じる。
事故が起きないことは大切だが、それが事故報告を忌む風土を生むなら問題がある。

ハインリッヒの法則をご存知だろうか。

1件の重大な事故の背景には
29件の軽度の事故があり
さらにその背景には
300件の事故に至らない軽微な事象がある

東京都教育委員会では、怪我や症状が重篤で早急な医療の対象となるような事故を「アクシデント」、怪我や症状が早急な医療を要しないものの、アクシデントに至る危険性がある事故を「インシデント」、事故に至る前あるいは怪我や症状が出る前に未然に防いだものを「ヒヤリハット」と区分して、それぞれの事象が起きた際には早急に報告を上げることとしている。
ハインリッヒの法則に当てはめると、29件のうち重大なものがアクシデント、比較的軽微なものがインシデント、300件のものがヒヤリハットとなる。ハインリッヒの法則における重大な事故は、重大アクシデントとされる。
(余談だが、個人情報の紛失はアクシデントである)

事故報告は、起きてしまった事故を繰り返すことや、さらに重大な事故が起きないように、以後の教訓としてなされるものだ。
事故を起こさないことが一番であることは当然だが、人と人とが関わる場である以上、ヒューマンエラーや環境不備を事前に全て排除するなど不可能である。だからこそ、起きてしまった事故の検証と対策は重要なのだ。

しかし、事故を防ぐ意識が事故報告を忌む風土を生むと、逆に事故報告が出されづらくなってしまう。適正な報告がなされなければ、検証と対策がなされず、結果より重大な、かつ防ぎ得る事故を防げなくなってしまう。

起きてしまった事故は消すことができない。
事故報告は「出てしまう」ものではなく、「適正に出される」ものでなければならない。

地域の根ざす居場所

人口が増え続ける「日本一小さな村」にある"日本一子どもに優しい図書館"

小さな村だからできる…
ではなく、そこに愛があるからできる。
子どもに優しいだけでなく、子どもを中心にして人全体に優しい。
効率の良さではなく、合理性ではなく、愛情。
ここに来れば安心という環境は、地道にしか作れないけど、一度できれば強い。

優しさは、弱さを包む強さ。

ハイパー児童館ぷれいすも、こんな場を目指したい。

「Meet the Other !」開催!(予定)

日程
2016年12月4日(日曜日)
*12月の障害者週間(3〜9日)の日曜日
寒いけど、そこはなんとかする。

場所
都内の大きな公園(代々木公園?)

コンセプト
「みんなちがってみんないい」を全身で感じ合って笑い合う幸せ空間

インクルーシブな地域の居場所作りに向けて、ソーシャルインクルージョンの土台を築く。
大きく動いて、大きく訴える。

ブースとして「ハイパー児童館ぷれいす」のプロトタイプもやる。

ステージでは、「みんなちがってみんないい」を体現するアーティストのパフォーマンス。

誰にとっても優しいフードやインターナショナルな料理を提供するフードブース。片隅には再調理コーナーも完備。

ユニバーサルスポーツを体験できるブース。

ソーシャルマイノリティの生活を豊かにするための相談コーナー。

まだまだ何かできるはず。

やりたいと思うだけでは実現しないということには、随分前から気づいてる。
だから、やると決める。
できる根拠は何もない。
それはこれから埋めていく。
一人でなんてできっこない。
自慢の人脈フル活用。
一年後の実現を決めた!

皆さんの協力をお願いします!

ギフテッド ≠ 障害児

ギフテッドと言われる人たちがいる。
「天才児」とされるのは正確さに欠けていて、「天賦の才」がしっくりくるか。
特定の才能が、早期教育や英才教育といった後天的な蓄積ではなく、先天的に身に付いている人を指す。

ギフテッド教育も、子どもをギフテッドに育てる(そもそも不可能)教育ではなく、ギフテッドが持っているギフトを潰さずに活かすための教育である。
ギフテッドは、特定の才能があるが故に通常の教育では「吹きこぼし」になってしまう。その対応をするのがギフテッド教育なのだ。

しかし、時にこのギフテッドを「障害児」の言い換えにでもしようとしているかのような文脈に出会う。
「障害を才能に変える」なんていう謳い文句も見たことがある。

サヴァン症候群という、自閉症者の一部に見られる様態がある。記憶だけで写真のような描写で絵を描いてしまうなど、才能ではくくれない能力を発揮する。
もしかすると、このサヴァン症候群とギフテッドが誤って混同されているのではないか。

いずれにせよ、ギフテッドは障害児の言い換えにはならない。
障害児の「隠れた才能」を闇雲に探すことよりも、元々ある特性と発達のペースに合わせて提供できることが何かを根気強く探っていくことが大切だ。