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「障害児」のいない社会へ

障害児の出産「茨城では減らせる方向に」 教育委員が発言

「『障害児』なんていなくなればいいんだよ」と、雑談の中で言った先輩がいた。でも、それは、リンクの71歳のババアが言っていることとは全然違う。むしろ真逆と言っていい。

まず、記事について。
この茨城県教育委員の発言は、いわゆる優生思想そのもので、完全なる命の選別であり、あってはならない意見だ。「問題ない」とした茨城県知事の判断にもガッカリだ。
宿った命に優劣などない。障害児の養育が、いわゆる健常児の養育より大変なのは、制度の不備や周囲の理解不足と言った社会環境の未整備のせいなのであって、生まれてくる障害児にも、障害児を産み育てる家庭にも罪もなければ責任もない。
それを「命の大切さと社会のバランスの問題」とすり替えて、家族、とりわけ母親に責任をなすりつけようと言うのだ。
断じて許せない発言である。

一方、先輩が言った「『障害児』なんていなくなればいいんだよ」は、障害種それぞれの療育のあり方に偏るあまり、本当に必要な支援や指導が行き渡らないのは、ただ単に大人の側のワガママやカテゴライズが原因であって、結果障害児本人が将来困ったり苦しんだりすることを考えてないんだ、というような会話の流れで発せられた。
「障害児」という(そして、「○○障害」というさらに細分化された)カテゴライズによって、結果障害児本人が辛い人生を歩むのでは本末顛倒だ。「障害」は障害児・者の内ではなくて、取り巻く社会との関わりにあるという考えこそ、これからの社会形成の主流となるべきである。
障害児・者がどういう障害を抱えているかではなく、社会で生活をする上で具体的に何が困っていて、どんな支援が必要なのかにフォーカスした政策が、教育にも福祉にも取られていくべきなのだ。それを突き詰めれば、「障害児・者」というカテゴライズ自体がナンセンスであり、そのカテゴライズが不要になるはずだ。

「『障害児』のいない社会」で目指すべきは、障害児を産ませないという優生社会ではなく、みんながありのままであたりまえに過ごせる、いわば「共生社会」なのである。