想像力が多様性を担保する
新年早々、某寺院がベビーカーでの初詣に自粛を求めたことが批判を浴び、それに対して様々な意見が出され論争になりました。
「初詣 ベビーカー」で検索すると色々出てくるので、詳細はそちらに譲るとして、この件から考えたいこと。
それは、もっと想像力を働かせて、他者に寛容にならないと、この先もっと生きづらい世の中になるよ、ということです。
「ベビーカーで初詣」というシチュエーションに限って個別的に考えるのも考え方だし、「場所を取るもの×人混み」と広く捉える考え方もありだろう。
どちらにしても、想像力を互いに働かせれば解決策はあったかも。
「ベビーカーで初詣」で考えたら、家から神社や寺院まで出かけて家に帰るのにベビーカーが絶対必要(車がないとか、駐車場がないとか)と考えることは責められないけど、神社や寺院が事故や危険を回避するためにどうするか考えることだって必要だし、実際人混みのただ中にベビーカーがあるのは危ない。
親は親で、ベビーカーでは危ない(我が子にとっても、周りの人にとっても)場所もあるだろうから抱っこ(おんぶ)ヒモも用意しておこうっていう想像力があっていいし、神社や寺院はベビーカーでの参拝に備えて預り所を設けようという配慮があっていい。
「何がなんでもベビーカー vs ベビーカー自粛せよ」という構図になることが、不要な衝突を産んでいるんじゃないかな。
互いに歩み寄る姿勢と、想像力を働かせてできる準備があれば、こんなに論争(というか、炎上)にならずに済んだのかもしれません。
「場所を取るもの×人混み」で考えると難しいけど、車イスの人もいれば白杖をついている人もいるだろうと想像力を働かせることで変わることだってあると思う。
そして、弱者や困っている人に対する寛容さをみんなが少しずつでも持ち寄れば、今よりずっと多様性が担保されて、生きやすい社会になるんじゃないでしょうか。
弱者に対する寛容さは、何かの拍子に自分が弱者の側に立つかもしれないという想像力から産まれると思います。
だからやはり、想像力が多様性を担保するんだと思うのです。
年賀状を巡る意見について思うこと
あけましておめでとうございます。
年始にふさわしい年賀状について、近頃出される二つの意見に物申したいと思います。
その1
「年賀状なんてもう古くね?」という件
メールが一般的になり、SNSが普及し、個々人がより密に繋がる昨今。
巷では、紙資源や時間、労力のムダと言われたり、メールやSNSで充分、あるいはメールやSNSの方がいいとまで言われたりで、実際に数を減らしている年賀状。
私はその風潮には抗いたいな、と思うのです。
年賀状のやり取りでは繋がりが薄いから、メールやSNSで濃く繋がれた方がいいという声もありますが、古来人々の繋がりというのは薄く脆いものです。
メールやSNSの繋がりだって本質的には変わらないはずなのですが、その長所でも短所でもある即時性のために誤解されているのだという気がするのです。
「年賀状だけのお付き合い」に意義を見出せない人が増えていることも寂しい限り。
普段のお付き合いがなくなっても、繋がりはありますよというささやかな心配りが日本人的であり、年賀状の良さだと思うのです。
むしろ、メールやSNSでの即時性の強い繋がりに疲弊も覚える現代にこそ、年賀状のゆるい繋がりがもたらす癒しが必要なのではないでしょうか。
その2
「年賀状に子どもの写真を使うな」という件
年賀状の題材に子どもの写真を使うことを嫌がる声や諌める声があがっています。
「子どもなんて関係ない」
「独身や不妊の人への配慮がない」
は?
あ、失礼。
子を持つ親にとって、子は宝であり、その成長が自慢なのは当然のことです。
それを「自分には関係ない子どもの顔を見せられても困る」っていう感覚がわかりません。
「独身の人には気の毒だ」って、相手の幸せを幸せと思えない思考回路の方がよっぽど気の毒です。
「不妊の人には辛い」って、そうなんですか?子どもの写真を使うのが嫌味と思う方がどうかしていると思うのですが、どうでしょう?
以上の意見から、私は来年以降も、子どもの写真を使った年賀状を出します。
年賀状が大切な日本の文化として永く残っていくことを願って止みません。
アンテナの感度
私は平成15(2003)年に寄宿舎指導員になり、肢体不自由の養護学校(当時)に赴任しました。
少しして気付いたのは、街には身体の不自由な人がたくさんいるんだなってことでした。
平成23(2011)年に盲学校に異動すると、今度は視覚障害の方を多く見かけるようになりました。
自分が関わっている人やモノのことには、常日頃から意識が向くようになり、結果として関わる前より気付くようになるということなんだと思います。
それは、アンテナの感度のようなもので、関わりのある事柄に対しては感度が高まり、関わりのないものに対しての感度は相対的に低くなるということだと思うんです。
だから、日頃障害者と関わらない人にとって、障害者のことには意識が向かないし、意識が向かなければ理解も進まないということなんじゃないでしょうか。
障害者への理解を深めるための第一歩は、障害者との関わりを持って、障害者のことに意識を向けるアンテナの感度を高めることなんだと思います。
そのために、自分ができることが何かを追求していこうと思います。
「ふつう」ってなんだろう
http://www.pref.aichi.jp/soshiki/jinken/281118.html
ネットで愛知県の人権啓発ポスターが秀逸と知り、県のHPにあたってみました。
難しい言葉です。
「ふつう(普通)」
そもそも、ふつうって?
例えば、鉄道には「普通列車」がありますよね。
普通といえば主に各駅停車を指すわけですが、なぜ各駅停車を普通というのでしょう?
JRの場合、特別の料金をとって通過駅のある列車、つまり急行や特急のことを「優等列車」と呼びます。そして、優等列車ではない列車のことを「普通列車」と呼ぶのです。
何が言いたいかというと、「普通」という概念は、「特別」な何かがあって初めて生まれるということです。
逆に言えば、特別な何かがなければ、普通という概念も必要ありません。
日本の社会では、障害者も外国人も特別です。突き抜けて何かができる人も特別だし、逆にできないことが多い人も特別です。
いろんな特別がある社会なだけならいいのですが、日本人には特別を特別視しすぎる傾向があります。そして、「普通」であることを自他に強要する風潮も、残念ながらあります。
でも、本来は一人ひとりが全く別の考えや生き方を持っているのですから、誰が「特別」ということはないはずです。「特別」がないのですから、「普通」もありません。
誰もがみんな、あるがままであたりまえに生きられる世の中になって、「普通」という概念がなくなったらいいな。
そんなことを考えさせられるポスターでした。
「教師を減らすな!」の説得力
財務省が、予算編成に当たって教員の削減を打ち出したことに、文科省や教員、教育関係の団体などが反発しているという状況です。
財務省としては、限りある税金を効率的に配分する使命があり、少子化でこどもが減っていくんだから、今の基準と照らせば教員は減らせるだろうという論理でくる。
文科省以下、教育諸団体としては、こどもの数は減っても教育課題が多様化、複雑化しているうえ、教員の勤務実態が苦しい中、機械的に削減するとは受け入れ難いという論理で返す。
残念ながら、説得力で言ったら、財務省に分があると言わざるを得ません。
なぜなら、数で目に見える根拠があるからです。
「どういった課題に、どのような配置で教員を当てることが効果的で、地域の実態を考えてこれだけの教員が必要であり、そのためにはこれくらいの予算を割いてほしい」
というような具体的な根拠がなくては、結局財務省と文科省のパワーゲームで、こどもの姿が見えないままに予算編成が進んでいってしまいます。
国の宝であるはずのこどもにかかる予算が少ないのは、財務省に理解がない以上に、文科省に説得力がないからだと思います。
説得力を持つためには、
・海外の事例を研究し現場に下ろす
・根拠を得るための実験をする
・実験に堪えうる教員育成をする
・全国一律の基準を取っ払う
などなど、文科省以下教員諸団体、研究機関がタッグを組んで取り組んでいかねばなりません。
そういう姿勢がないから、「文系学部はいらない」なんて暴論がまかり通ってしまうんです。
こういった根拠を、慶応大学の中室先生は「科学的根拠=エビデンス」と呼び、これからは教育に経済学の見地を取り入れていくべきと唱えています。
今の基準でも、新しい手法や方策に取り組んで成果を上げている先生もいます。
一方で、少子化で結果的に少人数クラスになっても崩壊している学級もあります。
ただ感情的、感覚的に「教師を減らすな!」という声にどれだけの説得力があるか、教育に職として関わる私たちは、もっと内省する必要があるのかもしれません。
【ぷれいす】場所について(放言)
ハイパー児童館ぷれいすを作りたいと常々申しておりまして、とはいえ、なかなか具体的な形になっていかないわけです。
具体化に踏み切れない要因なんて挙げれば言い訳になっていってしまうので控えますが、やはり性質上"ハコ"がないと始まらないというのも大きな要因=言い訳になっています。
で、ふと降りてきてしまった思いがあるんです。
もしかして、場所を「都区内」に限定して考えているのが足枷になっているのではなかろうかと。
都区内に限定しているのは、自分の動ける範囲でという考えなわけですが、そもそも「動ける範囲」ってなんなんだと。
「今の仕事をしながら」という前提があって、そういう考えになっていますが、「都区内だったら今の仕事をしながらできるのか?」という根本的なところで引っかかってしまいまして。
何を言わんとしているかというと、
「ぷれいすを形にできるのなら、どこでやったっていいんでない?」
ってこと。
他府県込みで。いや、けっこうマジに。
移住はしませんよ。
今の生活圏を根底から変える意義はないし、今築いてるコミュニティは大切にしたいし。
ただ、狭い日本、あんまり縮こまっててもしゃあないのかなとか。
ぷれいすがすぐに収益を生むなんてさらさら考えていませんが、家族を養う最低限の収入だったら(奥様が今の仕事を続けて下さることは前提ですが)何か別の仕事でも賄えるんじゃないかとかまで考えてたり。
それが甘い考えだっていうのもわかってますが、そもそも今だって甘い考えだから先に進めないわけで、どこかの何かで折り合いをつけないと進めないじゃんって思っちゃったり。
という、独り言でした。
【保育園】量も質も求めなければ
待機児童がずっと問題になっているのに、一向に解決の気配がない。
建設しようとして近所に反対されるだなんて、作る側の説明不足があったとしても異常なことだ。
国の宝であるはずのこどもをなぜこんなにないがしろにするのか、理解に苦しむ。
一方、事業として様々な事業者が保育園経営に乗り出すことに懸念を示す例も見受けられる。
安易に保育園経営に乗り出しながら、質の担保がままならず、最悪乳幼児の死亡事故に繋がる事例がある状況から考えれば、そんな声も仕方ない。
しかし、中には保育園に経営という概念、事業という位置付けはそぐわないという、ややトンチンカンな意見も見受けられる。
おそらく、経営や事業という言葉から、金儲けというイメージを想起しているせいだろう。
しかし、いくら公益性の高いこととはいえ、事業として経営する視点がなければ、持続性は担保されない。
公益性の高いことは公が担うという前提が、税収の減少で崩れている今、そしてこれからの社会で、保育園をはじめとする社会事業を民が担っていく方向性には抗えない。たとえ公が担うとしても、経営面では民間の手法を取り入れていく必要性は揺るがない。
それは、保育の質を下げるということと同意ではないのであって、量を増やさねばならない現状を打破するには必須の視点なのである。
量より質ではダメなのだ。
保育園は、量も質も求めていく領域。
そして、国の宝を社会全体で育む当たり前の意識を取り戻すべく、保育園が果たすべき役割は大きいはずである。