SMILE make SMILES

ダイバーシティとユニバーサルデザインに興味あります。

撮ってもらって

「今度プロフィール写真撮ってよ」

年賀状に書いた、そんな軽い一言から始まった。

大学生の時、ボランティアリーダーとして参加したYMCA中高生のスキーキャンプ。
そのメンバー(参加者)だった江藤はんなさんが、今はフォトグラファーとして活躍している。

昨年末、髪型も変えたし、たまにはまともなプロフィール写真にしたいななんて思っている時に年賀状を書いたから、はんなの年賀状に冒頭のメッセージを添えた。
はんなも快諾してくれた(と勝手に思い込んだ)ので、具体的に日程を調整して、お互いの仕事の都合がついた、とある平日の午後に待ち合わせた。

撮影の前に、ぷれいすのことについて質疑応答みたいに話をさせてもらった。
はんなの質問やツッコミどころが的を射ていて、答えに窮することさえあった。
頭の中が整理され、ちょっといい意味で冷まされた感もあり。

そして、とある公園に移動して撮影。

友達って言ってもプロだし、てか、プロの顔してるし、最初はぎこちなく。
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でも、さすがプロですよ。

顔の向きや視線を変えてみたり
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話しかけて会話の中でとか
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なんやかや、100枚以上撮ってもらった。

さしあたり、SNSに使ってみた。

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自分で言うのも照れ臭いけど、こういう笑顔の写真は記憶にない。

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先を見ている風にトリミングして使用。

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なんとなく、これ。

おまけ
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プロに写真を撮ってもらったということ以上に、リーダーとメンバーだった二人が、社会人として対等な立場でいることを実感できたことが嬉しかった。

だって、初めて会ったはんなは中3だったもんな。

その時、「素敵な大人になってほしいなぁ」と思った相手が、そう思った以上に素敵で立派な大人になっているんだから、嬉しいし、気が引き締まる。

あと、写真を見て思ったのは、なんだか自分の父親に似てるというか、似てきたなというか、そんな感じ。
今までの自分の写真を見てもそうは思わなかったのに、なんだか不思議。

そんな感じも含めて、とても嬉しい写真ばかり。

はんな、ありがとう。

進路指導ってなんだろう

仕事柄、特殊教育から特別支援教育へと受け継がれてきた実践を様々体感してきた。素晴らしい実践や引き継いでいくべき実践に数多く触れてきたつもりだ。

しかし、知的に障害がある生徒に対する進路指導については、いささか疑問を感じている。
進路先ありきというか、道が先にあるというか。

知的な障害があると、基本的に福祉就労が選択肢の中心になり、進路に向けた作業の時間や実習もそれに向けて進められていく。
なんだか、そこに子どもの思いとか、持っている、あるいは身に着きそうな力量が脇に置かれてしまっていないかという疑問。
福祉就労は、社会の一員として働くというよりも、障害者の労働の権利や聖佳町の充実を制度として保障するという意味合いが強く、もちろんそういう制度がふさわしい場合も少なくないけど、その道しかないのかなと思わせる生徒もやはり少なくない。

とはいえ、問題はそういう進路指導をしている学校にではなく、学校がそういう進路指導をせざるを得ない社会状況にある。
知的に障害のある人の就労=福祉就労という、半ば固定的な風潮を打破するには、障害者に冷たい今の日本の社会とその制度を変えていく必要がある。
社会から障害の有無というカテゴライズがなくなって初めて、子ども第一の進路指導が意味深くなるのかもしれない。
(2015年4月にtumblerのブログに挙げた記事を編集して転載)

Meet the Other ! 進捗16/02/28

http://smilemakesmiles.hatenablog.com/entry/2015/12/16/184431

【コンセプト】
長すぎた上に、有名なフレーズを拝借していた部分を整理して以下に変更

「みんなちがってみんないい」を全身で感じあって笑い合う幸せ空間
「わたしとちがう」に出会う場所

【会場】
寒い時期に障害のある方にも参加していただくこと、天候による影響を抑えることを考えて、屋内施設を中心に考えていく。

具体的な話を進める手立てを立てていかなくては。

一進一退、紆余曲折

というよりも、右往左往。

今年、というか、近々に何を目指すのかと、ゆくゆくどうしていきたいのか。
短期的目標と中長期的目標。

気が急いてしまったか、近頃ややそれらがごっちゃになってしまった。
よく陥る。

とある方に、ハイパー児童館ぷれいすを作ることの話をさせていただく機会があり、その方がかなり示唆に富んだ質問を投げかけてくださったことで少し整理されてきた。

中長期的目標は、変わることなく
「放課後から社会を変える」
「誰もがありのままであたりまえに笑顔でいられる社会」
「障害の有無などに関わらない子どもの地域の居場所作り」

それに向かうための、何も踏み出していない現時点での短期的目標は
「『障害』は個々の間の違いでしかない」ことへの意識付け。

その短期的目標を具体化させるアイディアが
Meet the Other !
だったはずだったのに、ちょっと停滞させてしまった。

ということで、12/4(日)のMeet the Other ! 開催に向け、アイディアの具体化と発信をしていきたい。

「方法」という悪魔に取り憑かれず
「目的」を果たせるように
inspired from 「RPG」 by SEKAI NO OWARI

場を持つためには

戦略的かつ具体的に場を作る。そこから始める。
エリアも絞れてきている(内緒だけど)。
だったればこそ、法人格があった方がいろいろと都合がいいと考え始めている。
初めてじゃなく、改めてそう思う。

理由1
不動産として空き家や空き店舗を借りるなりして手配する際には、法人格があった方がスムース。
個人としてでは信用される見込みがない。
契約にしても、それに必要な資金の調達にしても。

理由2
兼業としてきちんとやりたい。
公務員の端くれという立場上、「職務外で個人でやってます」はなかなか通用し難いのではなかろうか。
職務時間外も公僕としての身分は変わらないからこそ、兼業として認められる、いわばお墨付きをもらうことは、後々必要になりそう。
だったら今のうちに。

理由3
箔がつく。
個人的な活動じゃありませんよ、様々な方の協力を得て事業としてやってるんですよというメッセージ。

本末顛倒と思う人もいるかもしれない。
活動が発展して法人化してだろうって。
でも、自分には目指す将来像がある。どこかで法人化は必要だ。だったら先送りする理由なんてない。ないんじゃないか?

ということで、賛同者絶賛募集中。

作ってみるとはいうものの

前々回のエントリーで宣言?した通り、やっぱり作ってみなくては何も進まない。
その試算として、我が家の近所の空き店舗を引き合いに出してみた。初期費用の概算をするには有意義だったかもしれない。ただ…

手持ちの物件があるなら悩むことはない。空き家だろうと空き店舗だろうと、使えるものがあるならそれを使わない手はない。
しかし、残念ながら、実家の母屋が空いているわけでもなし(ていうか、公社住宅だし)、店を畳んで持て余している親戚縁者がいるわけでもなし、それはもうどうしようもない。自力で調達するしかない。

だったら、ただ闇雲に空き店舗や空き家を当たるんじゃなくて、戦略的にいってもいいのかなとも思ってきた。

障害児の放課後を整え、そこに地域を巻き込んで、インクルーシブな居場所にしていく。
障害児の中でも、インクルーシブのための垣根が高いのは、独断と偏見を恐れなければ肢体不自由児だと考えている。
いわゆる健常児と過ごすことはもちろん、知的障害児と過ごすことにも抵抗感を抱いている肢体不自由児の保護者は少なからずいる。
だからこそ、そこに攻め込む。
ならば、肢体不自由特別支援学校からアクセスしやすい場所に的を絞るってのはどうだろう。
うまくいくかはわからない。だけど、やってみなけりゃわからない。自ら足を運んで当たってみよう。

もし、何か情報をお持ちの方がいたらご連絡を。さしあたり、都区内に限る。

障害者の表記よりも気になること

「障害者」という表記について、しばしば議論が起こる。
「害」の字のイメージが悪く、「障害者」の差別につながるってことで、「障がい者」「障碍者」という表記にすべきと。
「碍」の字が常用漢字になっていないため、「がい」の表記が比較的多く、窓口や部署の表記を「障がい者」に変更している自治体もある。

しかし、このことに言及した熊谷俊人千葉市長の意見が、私の思いと合致した。

障害者の表記を変えたことで、差別がなくなることに何も寄与しない。
何らかの不自由があっても障害なく生活できる社会作りが進めば、ことさら「障害者」と括る必要さえなくなるはずだ。

ところで、障害者の表記よりも気になっていることがある。
それは「健常者」という表記。
「日常生活に障害のない人」を指す言葉が、なぜ「健常者」なのか。
体(広く身体上の機能という意味で)に不自由がなくても、病気になったりケガをすることはあたりまえにあるが、そのことだけで健常者が障害者になることはない。
逆に、体に不自由があっても、それ以上のケガや病気がなければ「健康」なのに、健常者とされることはない。
「健常者」という表記は、体に不自由がないことに対する驕りと言っても過言ではない。

体の不自由の有無で分ける社会から、誰もがありのままであたりまえに幸せになれる社会へ。
そんな社会が実現したとき、障害者という言葉とともに、健常者という言葉もいらなくなるだろう。