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SMILE make SMILES

「笑顔は笑顔をつくる」で、誰もがありのままで当たり前に過ごせる社会を目指す【田﨑】のblog。

Meet the Other ! って…

2016年の目標として掲げながら、実現ならずにリベンジせんと改めて掲げたMeet the Other !

http://smilemakesmiles.hatenablog.com/entry/2015/12/16/184431

コンセプトを考え直したり、中身を練ってみたり、方々に声をかけたりしてみた。とあるチームと手を組んで進めていけそうな感じにもなった。

でも、何も進んでない。
コンセプトは固まらない。
中身は定まらない。
仲間は増えない。
手を組んでくれそうだったチームにもフラれた。

そもそも成し遂げたいのは、障害や得手不得手に関わらず、誰もがあるがままであたりまえに過ごせる居場所創り。

創ろうとしている居場所に「ハイパー児童館ぷれいす」という名も付けた。

ハイパー児童館ぷれいすを創る礎にするべく、イベントとして「あるがままであたりまえに」を体現する場を創ろうと思い立ったのがMeet the Other ! だった。

でも、何も進んでない。

根本的に間違ってるのかな?

自分に人徳も人望もないことはわかってるつもりだけど、もっと根本的に人間として不足しているのかな?

元々ない自信がさらに失われていくのを感じる。

お前にできっこない。

お前の出る幕ではない。

そういうことなのかな…

学校が歩むべき道


4月で小学生になる次男向けに送られてきた通信教材の宣伝封筒。
スゴく引っかかってしまって。

点数というモノサシで測れる成果をやる気につなげる気にはなれません。
点数の上でつまずいた時、それだけでやる気を失うのってナンセンスだと思うからです。
点数が悪いなら悪いなりにやる気が出せる方が…ってことでもないのかな。
もっと、学校に行かなければ体験できないことに焦点が当たってほしいんです。

20年後になくなる職業のリストに教師が上がって話題になりました。
ただ知識を詰め込むなら、確かに一斉授業で教師が講義するより、ITで個別に学習した方が効率もいいし効果的です。アメリカの一部地域では、実際に学習がITに委ねられ、教師を配置しない形の学校があるのだと言います。
教師がなくなるということは、学校の存在意義が薄れるということです。それでいいのでしょうか。

そのことを考えるのにオススメなのがこちら。

コンテンツからコンピテンシーへ。

知識から協同へ。

教育哲学者である苫野先生が以前から重要視する、「自由」の感度と「自由の相互承認」意識の育成こそ、これからの学校で重要視されるべきであって、また、今後の学校の存在意義はそこに集約されるべきでしょう。

そして、なんとそれを主軸に置いた新しい学校が作られることが発表されました。

軽井沢風越学園
http://kazakoshi.jp

楽天副社長で、民間人校長や自然体験型保育園運営を歴任された本城氏が理事長、埼玉の公立小学校で(つまり現行の教育制度の中で)イエナプラン教育の実践を展開された現東京学芸大准教授の岩瀬氏が副理事長、そして苫野先生が理事を務められている、そのメンバーだけでも心躍ります。
ぜひ、設立メッセージを一読ください。

新しい学校の可能性だけでなく、これからのあるべき学校の可能性さえ感じます。

評価の観点

二学期末、個別指導のまとめを確認する中で、ベテランの指導員がおっしゃっていたことが心に残った。

それは、行為の評価とその子そのものに対する評価は分けて考えるべき、という指摘。

「〜ができたからいい子」
「〜できなかったからダメな子」
「〜してしまったから悪い子」
としてはいけない。

できた/できない/してしまったことはそのことだけを評価して、その子そのものはしっかり受け止めてあげる。

言い換えれば、行為と人格は別ということ。

応用行動分析の考え方では、行動の原因を測れない心情や性格、感情では捉えません。行動の原因は、常に第三者に検証可能な現象にあると考えるわけです。

「〜ができたからいい子」
「〜できなかったからダメな子」
「〜してしまったから悪い子」
という評価は、ともすると、

「いい子だから〜できた」
「ダメな子だから〜できなかった」
「悪い子だから〜してしまった」
という誤った分析を産みかねません。

行為は行為として捉えて評価する姿勢が、教育職に就く者はもちろん、子どもと関わる全ての大人がもたなければいけないものなのだと思います。

「菊池先生の「ほめ言葉シャワー」の奇跡」を読んで、改めてそのことを痛感しました。

教師は20年後になくなる職業と言われています。学習支援はITで充分という観点からです。今、世の中にはびこる学力偏重の教育ではそう言われても仕方ありません。
しかし、本来教育が目指すべき「豊かな心の醸成」は、ITだけでは達成できません。ITは効率よく学力を伸ばすことはできても、子どもそのものを信じて受け止めることはできないからです。
そこには、生身の人間同士の関わりが欠かせないし、その点が教師の仕事としてもっとクローズアップされなければならないと思います。

自戒も込めて。

想像力が多様性を担保する

新年早々、某寺院がベビーカーでの初詣に自粛を求めたことが批判を浴び、それに対して様々な意見が出され論争になりました。

「初詣 ベビーカー」で検索すると色々出てくるので、詳細はそちらに譲るとして、この件から考えたいこと。

それは、もっと想像力を働かせて、他者に寛容にならないと、この先もっと生きづらい世の中になるよ、ということです。

「ベビーカーで初詣」というシチュエーションに限って個別的に考えるのも考え方だし、「場所を取るもの×人混み」と広く捉える考え方もありだろう。

どちらにしても、想像力を互いに働かせれば解決策はあったかも。

「ベビーカーで初詣」で考えたら、家から神社や寺院まで出かけて家に帰るのにベビーカーが絶対必要(車がないとか、駐車場がないとか)と考えることは責められないけど、神社や寺院が事故や危険を回避するためにどうするか考えることだって必要だし、実際人混みのただ中にベビーカーがあるのは危ない。

親は親で、ベビーカーでは危ない(我が子にとっても、周りの人にとっても)場所もあるだろうから抱っこ(おんぶ)ヒモも用意しておこうっていう想像力があっていいし、神社や寺院はベビーカーでの参拝に備えて預り所を設けようという配慮があっていい。

「何がなんでもベビーカー vs ベビーカー自粛せよ」という構図になることが、不要な衝突を産んでいるんじゃないかな。

互いに歩み寄る姿勢と、想像力を働かせてできる準備があれば、こんなに論争(というか、炎上)にならずに済んだのかもしれません。

「場所を取るもの×人混み」で考えると難しいけど、車イスの人もいれば白杖をついている人もいるだろうと想像力を働かせることで変わることだってあると思う。
そして、弱者や困っている人に対する寛容さをみんなが少しずつでも持ち寄れば、今よりずっと多様性が担保されて、生きやすい社会になるんじゃないでしょうか。

弱者に対する寛容さは、何かの拍子に自分が弱者の側に立つかもしれないという想像力から産まれると思います。

だからやはり、想像力が多様性を担保するんだと思うのです。

年賀状を巡る意見について思うこと

あけましておめでとうございます。
年始にふさわしい年賀状について、近頃出される二つの意見に物申したいと思います。

その1
「年賀状なんてもう古くね?」という件

メールが一般的になり、SNSが普及し、個々人がより密に繋がる昨今。
巷では、紙資源や時間、労力のムダと言われたり、メールやSNSで充分、あるいはメールやSNSの方がいいとまで言われたりで、実際に数を減らしている年賀状。
私はその風潮には抗いたいな、と思うのです。

年賀状のやり取りでは繋がりが薄いから、メールやSNSで濃く繋がれた方がいいという声もありますが、古来人々の繋がりというのは薄く脆いものです。
メールやSNSの繋がりだって本質的には変わらないはずなのですが、その長所でも短所でもある即時性のために誤解されているのだという気がするのです。
「年賀状だけのお付き合い」に意義を見出せない人が増えていることも寂しい限り。
普段のお付き合いがなくなっても、繋がりはありますよというささやかな心配りが日本人的であり、年賀状の良さだと思うのです。
むしろ、メールやSNSでの即時性の強い繋がりに疲弊も覚える現代にこそ、年賀状のゆるい繋がりがもたらす癒しが必要なのではないでしょうか。

その2
「年賀状に子どもの写真を使うな」という件

年賀状の題材に子どもの写真を使うことを嫌がる声や諌める声があがっています。

「子どもなんて関係ない」
「独身や不妊の人への配慮がない」

は?

あ、失礼。

子を持つ親にとって、子は宝であり、その成長が自慢なのは当然のことです。
それを「自分には関係ない子どもの顔を見せられても困る」っていう感覚がわかりません。
「独身の人には気の毒だ」って、相手の幸せを幸せと思えない思考回路の方がよっぽど気の毒です。
不妊の人には辛い」って、そうなんですか?子どもの写真を使うのが嫌味と思う方がどうかしていると思うのですが、どうでしょう?

以上の意見から、私は来年以降も、子どもの写真を使った年賀状を出します。

年賀状が大切な日本の文化として永く残っていくことを願って止みません。

アンテナの感度

私は平成15(2003)年に寄宿舎指導員になり、肢体不自由の養護学校(当時)に赴任しました。

少しして気付いたのは、街には身体の不自由な人がたくさんいるんだなってことでした。

平成23(2011)年に盲学校に異動すると、今度は視覚障害の方を多く見かけるようになりました。

自分が関わっている人やモノのことには、常日頃から意識が向くようになり、結果として関わる前より気付くようになるということなんだと思います。

それは、アンテナの感度のようなもので、関わりのある事柄に対しては感度が高まり、関わりのないものに対しての感度は相対的に低くなるということだと思うんです。

だから、日頃障害者と関わらない人にとって、障害者のことには意識が向かないし、意識が向かなければ理解も進まないということなんじゃないでしょうか。

障害者への理解を深めるための第一歩は、障害者との関わりを持って、障害者のことに意識を向けるアンテナの感度を高めることなんだと思います。

そのために、自分ができることが何かを追求していこうと思います。

「ふつう」ってなんだろう

http://www.pref.aichi.jp/soshiki/jinken/281118.html

ネットで愛知県の人権啓発ポスターが秀逸と知り、県のHPにあたってみました。

難しい言葉です。

「ふつう(普通)」

そもそも、ふつうって?

例えば、鉄道には「普通列車」がありますよね。
普通といえば主に各駅停車を指すわけですが、なぜ各駅停車を普通というのでしょう?
JRの場合、特別の料金をとって通過駅のある列車、つまり急行や特急のことを「優等列車」と呼びます。そして、優等列車ではない列車のことを「普通列車」と呼ぶのです。

何が言いたいかというと、「普通」という概念は、「特別」な何かがあって初めて生まれるということです。
逆に言えば、特別な何かがなければ、普通という概念も必要ありません。

日本の社会では、障害者も外国人も特別です。突き抜けて何かができる人も特別だし、逆にできないことが多い人も特別です。
いろんな特別がある社会なだけならいいのですが、日本人には特別を特別視しすぎる傾向があります。そして、「普通」であることを自他に強要する風潮も、残念ながらあります。

でも、本来は一人ひとりが全く別の考えや生き方を持っているのですから、誰が「特別」ということはないはずです。「特別」がないのですから、「普通」もありません。

誰もがみんな、あるがままであたりまえに生きられる世の中になって、「普通」という概念がなくなったらいいな。

そんなことを考えさせられるポスターでした。