SMILE make SMILES

ダイバーシティとユニバーサルデザインに興味あります。

礼節を大切にするところから

「衣食足りて礼節を知る」と言います。

「生活に余裕があればこそ、他者に対する礼儀と節度が備わる」てなことですな。

ボクは、これを逆手にとって、

「たとえ衣食足らずとも、礼節は忘れじ」

の精神で生きようと(極力)心がけています。

心の余裕って、なくなり始めるとすぐ空っぽになってしまいます。

(「そんなことないよ」って人はいいんです。素晴らしいし羨ましいです)

なので、ボクは、心の余裕を亡くさないようにするべく、礼節を弁えた生活を心がけているのです。

やっていることはごくシンプル。

労を感謝の言葉で労う。

外食したら、退店する時に「ごちそうさま」

買い物したら会計をすませた時に店員さんに「ありがとうございます(の代わりに「どうも〜」など)」

路線バスを降りる時には運転手さんに「ありがとうございました」

相手を想う気持ちがあれば心に余裕ができる気がする。

今、いろいろバタバタしていますが、最低限の礼節はしっかり弁えて、いずれ衣食が足りるのを待とうと思います。

粗熱冷めたら冷え切ったの

立春を迎えるたびに齢が一つ増えることになっています。

2020という数字のキリ番(死語)感に浮かれて、ずいぶん無茶な決意を述べたなと、1ヵ月で気付きました。

ハイパー児童館ぷれいすに向けた具体的な行動を起こすという決意については、ここに全面的に撤回することを宣言します!

「!」付ける発言じゃないけどね。

今、必死に返済しているんです。
そして子らにもこれからどんどんお金がかかる。
わかっているはずなのに、なぜか唐突にその辺が吹っ飛んでしまう時期が来るんです。周期的に。
そうなると一人で異常に気分が盛り上がってしまう。
「やらなきゃ!」って気になる。
そうすると、それを発信したくなっちゃう。

やりたいことを口に出すことってすごく重要だと思うし、それはこれからも続けるけど、それと無謀な決意をごっちゃにしてはダメ。

応援してくれる人がいる。
賛同してくれる人がいる。

だからこそ、整うべきものがしっかり整ってからじっくり進めていく。

それまでは、妄想や夢を必死に発信していきます。

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世の中の成功者はさあ、しきりに

「まずやってみなくちゃ」
「できない理由を探すうちはクソ」
「たいていのことはうまくいく」

とか鼓舞すんのよ。
そりゃ正論なんだけどさ。

こちとら、家族を露頭に迷わせるわけいかんのよ。
できない理由は探してないの。現前とあるの。

だからできない。

「ガタガタ言わずにやれよ!」って言うなら、黙ってポンと1億よこせ。
そしたらやる。

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決意って何?って人はこちらへ↓

http://smilemakesmiles.hatenablog.com/entry/2020/01/04/174035

2020、一年の計

令和最初の年越しを過ぎ、令和2年=2020年を迎えました。


都営浅草線から京急に2100系で直通する臨時特急に乗りたいという思いが邪念になったのか、三崎の城ヶ島での初日の出は厚い雲の向こうでしたが、長男とのいい思い出になりました。

そして、あっという間に三ヶ日が過ぎ去ってしまいました。こうやってあっという間に時間が過ぎていくのはちょっとした恐怖でもあります。

障害児の居場所を地域に作るという思いが湧き上がったのは、平成20年=2008年頃。

当時所属していた肢体不自由特別支援学校寄宿舎の閉鎖が決まり、「舎なき後」を模索する学校の動きから感じた、障害児の居場所のなさがきっかけでした。

初めは寄宿舎をそのまま外に作る「輝宿舎(きしゅくしゃ)」として着想したものの、学校に紐付かない宿泊施設を作る壁の高さに頓挫。

一方で、これからの社会に作るのであれば、特定の障害児に限った居場所ではなく、どの子にも開かれた居場所の方がよりよいのではないか、という思いに至り、現存の最も近いものは児童館、それをさらに拡げるもの、それが誰にとっても過ごしやすい居場所になれば。そう願って「ハイパー児童館ぷれいす」と名付けるまではしました。

輝宿舎から12年、ハイパー児童館ぷれいすに変化してからも10年近く経ったはず。
いろいろ模索してつまずき、企画して頓挫し、呼びかけて流れ、発信して続かず、結果何も進まないままここまで来ました。

妻に打ち明けた際には、「決して先頭に立って(代表など)やらないで」とクギを刺され、「誰かにやってもらって手伝う」か「こどもが手を離れてからやる」かにしてとブレーキを踏まれました。

「誰かにやってもらって手伝う」を模索していろいろ呼びかけた時期もました。「何かできることがあったら言ってください!」と言ってくださる方はいました(それ自体は大変ありがたいことです)。しかし、言い出しっぺが「手伝う」スタンスで「じゃあ私が先頭でやる」と名乗り出てくれる奇特な御仁がそうそう見つかるわけもありません。

「こどもが手を離れてからやる」のには、あと15年以上はかかるでしょう。齢58になります。
そうなるとセカンド・キャリアのイメージになります。それはそれで悪い事ではありませんが、今抱いている思いをセカンド・キャリアまで温め続けるには時間が長過ぎに感じます。ハイパー児童館ぷれいすを作って満足するならセカンド・キャリアでも充分かもしれませんが、それは自分の中で違和感があります。そもそも、セカンド・キャリアって、定年退職を元気に迎えて有り余るパワーをぶつけるものであるはず。58歳まで元気に生きている保証などどこにもありません。自信もありません。

人生一回、後悔して死ぬならやるだけやりたい。

同じ後悔でも

「あれだけやったけどできなかった」

「家族のために我慢したけどやっぱりやりたかった」

では全然違う。

だから、決めました。
今年の半ばを第一期限、来年半ばを第二期限としてより具体的な模索を進めます。
半ばとしたのは、年度末の退職の意向を伝えるための期限が夏頃だから。

カフェとして街に開きながら、ハイパー児童館として全てのこどもに開かれた場所を作る。

そのために必要なお金、場所、資格、知識、その他諸々の準備をどうすれば進められるか。

妄想として先行して開きながら、必死に考えていきます。
http://hyperchildrenshouse-place.hatenablog.com/

それが、2020の、決意。

稲垣啓太は笑ってる

ラグビーワールドカップ2019は、南アフリカの優勝で幕を閉じました。

「4年に一度じゃない、一生に一度だ!」

と気合充分にホスト国の務めを果たした日本の関係各位の尽力と、前回大会で挙げた奇跡の勝利を奇跡で終わらせない戦績を挙げた日本代表の全力プレイもあり、大変盛り上がった大会になったのではないでしょうか。日本以外の対戦でも、中継の工夫もあって興味深く観戦することができました。

何よりも、私を含めた「にわかファン」を大歓迎してくれたラグビーの心の広さに感動した日本国民は少なくないはずです。

日本代表の選手も、大会の前から様々なメディアに引っ張りダコで、にわかファン(私のような)でもだいぶ名前がわかるようになりました。

その中で、「笑わないキャラ」で有名になったのがプロップの稲垣啓太選手ですね。

スコットランド戦で、日本の勝利に貢献するトライ、しかもそれが代表初トライを挙げながら、インタビューで「こんな感じなんだと思った」と答える表情もどこか憮然。

でもね、あの表情さえ、実はものすごく喜んでる表情だと思うんですよね。

稲垣啓太は笑ってる。

これは、テレビを(危なく「ブラウン管を」と書きかけたのを我慢しつつ、やっぱり我慢できずに告白)通して稲垣選手の表情を見た私の印象です。


笑ってるけど笑ってるように見えない
笑ってるけど笑ってるように見せない
笑いたいけど笑わないようにしている


自ら「笑わないキャラ」であることを受け入れ、そのイメージを壊さないようにしているのでは?

自分の笑った顔が(写真や動画で残るのが)嫌いなのでは?(実は私がそれ)

Twitterの投稿を見る限り、稲垣選手はかなりサービス精神旺盛な方とお見受けします。

もしかして、「笑わない」ことさえサービスなのではないか?

笑いたい人を笑わせないなんて、世間やメディアは酷い!
…ということを言いたいわけではありません、

ただ、稲垣選手の笑顔のカケラというか、気配というか、そういうものは感じます。

今後満面の笑みを浮かべた稲垣選手に対して、「笑うんかい!」とツッコむのがいいか、「笑顔も素敵じゃないですか!」と茶々を入れるのがいいか、その解は難しいところですが、身近な「笑わないキャラ」が笑った時には、やっぱり後者がいいかなと思ったりします。

何言ってんでしょうか。

イーグルスD1・辰己の初HR

10連休の9戦を2勝7敗と、勝ち星まで連休しちゃったイーグルス

故障者続出のホークスに抜かれてしまいました。

そんな連休の最後、6日(月)のライオンズ戦(メットライフドーム)で生まれた、期待のルーキー・辰己のプロ1号同点ホームラン!

この試合、先行は許しながら、ブラッシュもホームランで続いて結果は大勝。
さらに次のホークス2連戦を連続逆転サヨナラゲームでモノにするという上昇気流にも繋がったわけですが。

ボクは、辰己のプロ1号については、ホームランそのものもさることながら、ベンチに戻ってからの仕草にも注目しちゃいました。

ベンチの監督、選手とハイタッチを重ね、テレビカメラの前に来た辰己は、カメラに向かってユニフォームの左袖をヒラつかせる仕草をします。
その左袖のワッペンには…


「がんばろう 東北」

辰己〜!

イーグルスでは、震災の後から毎年入団選手が被災地訪問をしています。
チーム全体が、東北復興の旗手になろうと一丸になっています。
そのことをしっかりわかっているような気がして、やっぱりこのルーキーただモンじゃねぇ!って唸ったんです。

きっとどこかがニュースにするだろうから、その時はシェアしようと思ったのに、なかなかならないから発信しちゃった。

がんばろう東北!

がんばれイーグルス


〜〜〜

ところで、「辰己」なんだよね。「辰巳」じゃなくて。

ちょうど10年

今から10年前、2009年のゴールデンウィーク

今年と同じく5月6日が最終日でした。

5月2日の土曜から始まった5連休の最後の日、朝から頭痛に襲われました。使い込んだ太鼓のバチのように先が丸くなった棒でまっすぐ突かれた後のような痛みが右のこめかみを襲ってきたのです。

前触れも、思い当たる原因も、そして今までに経験もない痛みに戸惑いながら、かといって悪寒や熱っぽさがあるわけでもなく、予定通りの家族との時間を過ごしました(確かカラオケに行ったような)。

翌日以降、いつもと変わらずに生活を送りながらも、頭痛が引くことはありませんでした。しかし、痛み方と痛む場所が変わっていきます。
右こめかみの極所的な痛みは、次第にボヤけて広がり、右顔面痛へと変わり、かと思えば右偏頭痛へと変わり…

いろいろ調べて「これだ!」と思う症状の説明書きを読み進めると、「これは女性に特有の症状で…」となってしまい…

その後は食欲不振にも見舞われ、人間ドックも受け(内科的には何も問題ないと言われる)、さらに様々調べました。

そして、避けて通っていた症状しか考えられなくなり、心療内科で“うつ”の診断を受けることになります。

自分にとって、うつ症状の端緒であった、あの頭痛からちょうど10年。

あの時の倍の10連休最終日の5月6日は、しっかり頭痛でした。久々に重めの頭痛。

前頭部の頭蓋骨と脳の間に重りが入ってしまったかのような感覚。

この10年、通院と服薬、病休を経ても継続していた服薬からの、転院を伴っての脱却と様々に変遷を遂げてきました。

それでも頭痛なわけですが、原因がわかるだけに気持ちが楽な部分とキツい部分とあります。

減薬からの断薬は、規則正しい生活リズムと一定量の睡眠がセットなのに、この10連休(とその少し前から)で崩れてしまった。何にストレスを抱えているかも割とハッキリしている。

だから頭痛になるのも仕方ない。そう割り切れるのは楽な部分。

でも、だからって生活リズムを整えるのが難しいこと、ストレスの元が解消する見込みがないことはキツい部分。

いずれにせよ、私は自分のうつとトコトン付き合うと決めたのだ。身から出た鯖でもある。長年付き合ってきた気質とも別れ難い。

頭痛は身体が発する心のサイン。わかっちゃいるけど、しばらくは一緒に暮らしていくしかなさそうです。